海上寮は今から約80年前、戸塚神父が結核療養者のため小家屋を建てたことからはじまります。長い歴史のある病院ですが、その背景には心温まるエピソードと、心の痛む犠牲がありました。その海上寮の歴史について、かいつまんでとりあげたいと思います。

(写真:昭和10年ごろの外気舎)
海上寮のはじまりは昭和6年(1931年)、矢指村野中に戸塚神父が結核療養のための外気小屋「ナザレトハウス」を建てたことにさかのぼります。
戸塚神父は東大医学部を卒業し、外科医として北海道帝国大学の助教授を経て、当時はまだ少なかった欧米留学(パスツール研究所など)を命じられるなど、将来を非常に期待されていました。ところがその留学中、祈りの中で「日本でカトリックの病院を建て、そこで医師および司祭として働く」と決心したのです。これを知った両親は悲嘆の底に落ちたそうです。こうして当時土地代が安かった矢指村野中に昭和6年、「ナザレトハウス」が建築されました。
当時は結核は治療法もなく、大変こわがられた病気でしたが、戸塚神父の献身的な働きにより入寮者はそれほどうっ屈する様子もなく、のびのびと療養することができました。全国各地であった反対運動が野中ではなく、温かく守られたことも救いでした。しかし過労がたたり昭和14年、戸塚神父は47歳で心臓病のため他界しました。
その後戦時の国策により、海上寮は日本医療団に買収され、終戦近くには90床の規模に対し入院者は10名程度となってしまいました。
![]() 戸塚文卿神父 |
![]() 結核病棟 |
![]() ロンドン時代の戸塚神父 |
戦争が終わると、カトリック関係者の中には海上寮の心温まる運営を懐かしみ、買い戻しを検討する人もいました。その中で重要な役割を果たしたのが、当時田園調布教会の主任だった稲用経雄神父と、若い小原ケイでした。
小原ケイは大阪の聖母女学院で英語教師として働いていましたが、健康を損ね実家の田園調布に帰っていました。熱心なカトリック信者だったため、シスターになることを希望して稲用神父に相談しました。しかし稲用神父は修道会員であったが、少し変わった考え方をする人で、修道会に入らず在俗のままで社会福祉を行うことを勧めたのです。こうして同じようにシスターを希望していた女性数名と共に、多くの祈りや寄付に支えられ、昭和22年、海上寮を日本医療団より買収し、34歳の小原ケイが初代理事長として新しい「海上寮療養所」のかじとりをすることになりました。
関係者の努力ではじめの一年で入院患者数は80名となるなど、順調な滑り出しでした。戦後の混乱の中、行き倒れの人を助け、臨終だからと言ってもかけつける身内のない人もたくさんいる中で、亡くなるまで手を握りなぐさめ、棺が見えなくなるまでみんなで見送る温かい医療が、海上寮ではあたりまえのように思われていました。しかし、ほどなく結核の治療法が確立し、海上寮は運営の危機に立たされるのです。
![]() 稲用神父 |
![]() 左から和田・小原・長岐(昭和35年頃) |
結核療養患者の少なくなる中で、稲用神父は当時まだ無名だったカトリックの精神科医:土居健郎のもとを突然訪ね、海上寮を精神科にするのに力を貸してほしいとお願いしました。土居医師はカトリック系の精神病院をつくるということに魅力を感じ、顧問という形で海上寮が精神科になるための指導をすることになりました。
のちに土居医師は著書「甘えの構造」で日本人特有の精神構造について分析し、おそらく日本人ではじめて精神科医として世界的に有名になり、東大の教授にもなりますが、その原稿の一部は海上寮で書かれたと思われます。
土居医師に指導を受け、内科医でありながら精神科医療に注力した中沢喜み子医師は大変よく働き、一方でとても苦労していました。治療法の確立していない当時は暴れる患者も少なくない中で、たったひとりの常勤医として毎晩遅くまで働き、町の要請で無料診療所にも往診に出かけていました。
しかしそういう無理がたたったのか、海の星病棟が建ち正式に精神病院として舵を切った昭和46年、中沢医師は45歳の若さで心臓まひのため急逝したのです。多くの人がその突然の早すぎる、予想もしなかった死に愕然とし、嘆き悲しむ中で、やっと精神科病院として軌道に乗りかけた海上寮は、また暗礁に乗り上げてしまいました。
![]() 中沢喜み子医師 |
![]() 患者さんと談笑する中沢医師 |
![]() 土居健郎医師 |
中沢医師が亡くなった時、土居医師の一番弟子であった吉松和哉医師(のちに信州大学教授)は、丁度夏の休暇を利用して海上寮の手伝いに来ていました。中沢医師が亡くなり、みんなが嘆き悲しみ戸惑う中、吉松医師はただちに海上寮の院長として赴任する決心をしたのです。都立墨東病院の医長の要職を捨て、海上寮の危急を救おうとするのは、誰にでもできることではなかったでしょう。
この頃の精神病院は多分に威圧的・懲罰的で、患者の人権も正直あまり重視されない傾向がありましたが、吉松医師は患者が暴力をふるい危険な時でも職員が暴力や強い口調で対応することを禁じました。吉松院長と看護長やスタッフとの意見のぶつかり合いもありましたが、精神科病院としての海上寮の基礎がダイナミックに築き上げられていったのです。
昭和52年からは、鈴木純一院長(現東京集団精神療法研究所所長)があとを引き継ぎました。鈴木院長は治療共同体の確立をめざし、病院の医師等からは白衣が姿を消していきました。
患者さん同士が話し合うことで(グループミーティング)病棟の運営を決めたり、自分の病気についてとらえなおすというスタイルにより、患者たちは精神障害を越えてより生き生きとした人生を見つけられることができるようになってきました。
![]() 吉松和哉院長 |
![]() 鈴木純一院長 |
戦後海上寮が日本医療団から買い戻された時から、小原ケイ所長は海上寮の患者さんのお母さんとして、みんなの精神的な支えでした。戦後間もなくのころは道らしい道がないなか、飯岡駅まで歩き、ススだらけになりながら汽車に乗ったといいます。帰りは夜遅く荷物を背負い両手に荷物を下げて飯岡駅から海上寮まで歩くのですが、食料に不自由していた時代だったので、遠くに人影を見つけると素早く松林の中にじっと身をひそめて人が通り過ぎるのを待ち、海上寮の明かりが見えるところまで来ると神様に感謝しながら涙がこぼれることもあったそうです。それでもそういう苦労は、自分の子供をいとおしむような気持ちで、少しも苦にならなかったと話していたそうです。
海上寮が精神病院になってからも、朝早くから夜遅くまで働く傍ら、24時間いつでも電話を受け、いつも患者や職員の話に耳を傾け、そのたびにともに涙を流し、励まして祈っていました。その功績によりのちに正六位勲五等宝冠章が贈られていますが、彼女の信仰に根ざした底知れないやさしさに、みんなが守られていました。しかしそのみんなの「所長さん」も癌により、昭和61年に72歳でまだ早い死を迎えました。その死にあたっては本当に多くの人が震え、嘆き悲しんだと言います。
海上寮の母体となるロザリオの聖母会では、小原ケイが生きている時から重症心身障害児の入所施設の建設を検討していましたが、その志を引き継ぎ昭和63年、聖母療育園が開設しました。その後も創立以来の「光のあたりにくい人々とともに歩む」の精神を守りつつ、福祉分野の要請をお手伝いする事業も少しずつ増えていきました。
海上寮は平成8年より新しく佐々木日出男院長を迎え、閉鎖病棟を全廃するなど、障害者の自主性を尊重する医療をめざしています。また最近では、海匝地区の精神科医療ネットワークの構築を呼びかけたり、上野医師による認知症訪問診療システムなど、よりよい地域医療・福祉のために新しい試みを模索しています。ロザリオの聖母会も事業所は20以上に増え、多くの方の支援を行っていますが、海上寮もこれまでの創業者の意志を引き継ぎながら、精神障害者の障害がより少なくなり、自分らしく生活していけるための助けをしていけるように、これからも成長していきたいと思っています。
![]() 小原ケイ |
![]() 佐々木日出男院長 |
![]() 上野秀樹副院長 |
| 昭和6年4月 | 戸塚神父、矢指村野中に結核療養の小家屋(ナザレトハウス)建設 |
| 昭和14年8月 | 戸塚神父帰天(47歳) |
| 昭和20年5月 | 海上寮、日本医療団に買収される |
| 昭和21年11月 | 宗教法人「キリスト教聖フランシスコ友の会」代表小原ケイと 日本医療団の間に、海上寮譲り受け協議成立 |
| 昭和27年5月 | 社会福祉法人ロザリオの元后会の認可を受ける |
| 昭和31年 | 土居健郎氏を精神科顧問医に迎え、精神科・神経科を併設 |
| 昭和46年7月 | 中沢喜み子院長帰天(45歳) |
| 昭和47年1月 | 吉松和哉院長就任(電気治療の禁止、全人的対応の徹底) |
| 昭和52年1月 | 鈴木純一院長就任(集団精神療法の実践) |
| 昭和61年12月 | 小原ケイ所長帰天(72歳) |
| 平成8年4月 | 佐々木日出男院長就任(病棟の全開放化、障害者のリハ・復権の実践) |
| 平成22年4月 | 上野秀樹副院長就任(認知症往診の開始) |
※以上は「40周年記念誌」「小原ケイの追憶」「50年記念誌」を参考に作成しました。
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